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寺院一覧(都留市)

桂林山 冨春寺 (臨済宗妙心寺派) 人皇五十五代涼和天皇の御代に空海僧正が当地に来り、小形山の裾、桂川の清流を臨み、その景勝の優れたる地に一堂を建立し、暫くこの地に足を留めて空海自ら地蔵を彫刻し安置した。  中古、応永、正長年代を於いて、鎌倉建長寺格知禅師が当地に遊化されたおりに、土地の方々は開山になって頂ける様お願い致しました。天文五年郡内領主羽州大守小山田冨春公が諸殿を営繕し、開基として当山の大檀越になられた。五百五十年前小山田冨春公信有が桂林寺と冨春寺と共に開基させるに依り冨春寺は桂林山と称し冨春公の名前を頂戴しております。 郡内三十番札所
桂林山 冨春寺
本尊は阿弥陀如来、運慶の作と称される。
岩光山 念崇寺 (浄土宗) 開山は成誉念崇上人といい、長安寺二世吟応上人の弟子といわれる。 長安寺の末寺として江戸時代には栄え、郡内観音霊場の第三十一番札所にもなっている。明治以降も長安寺の隠居寺として住職が隠栖したが、戦中、戦後は無住となり、留守居役が在住した。  昭和四十八年二月、留守居役の過失により全焼、平成三年七月、長安寺観音堂の一部移転により堂宇再建となった。
岩光山 念崇寺
長安寺の末寺
常現山 西光寺  (浄土真宗本願寺派) 当寺は、恵心僧都の直弟、甲斐の国に下り 行基菩薩巡化の折、川茂に滞留、月余居住せし、西光寺旧地「モトシゲ」と伝えられる。「モトシゲ」とは、元屋敷のナマリ。 人皇後冷泉天皇代、康平二(1058)年の時遺跡地に一宇を創建し天台宗にして西光寺と号す。 当寺の開基了念、天台宗たりしを、了念は、浄土真宗本願寺派第八代門主蓮如上人の時、明応元(1492)年真宗に帰依し浄土真宗本願寺派に改宗する。
常現山 西光寺
TEL 0554-43-3004
本尊は、阿弥陀如来
川応山 浄泉寺 (浄土真宗本願寺派) 当寺の前には、桂川が流れており、西側には堰堤、その川沿いに桜並木、遠景に富士山という絶景の所です。  浄泉寺は、始めは天台宗でしたが、室町時代に浄土真宗に転派しました。  この寺の特色は、一流の御講師をお招きして法座を開放している点にあります。宗派を超えて、どなたも、ご自由に聴講できます  月の法座は、毎月第四金曜日夜七時から定例講座が開かれている。年間の大法座は、春の法座が四月第四土曜日の夜七時から、翌日の日曜日は午前十時から、秋の法座(報恩講)は、十一月二十一日午後七時から、翌日の二十二日は午前十時からです。
川応山 浄泉寺
本尊は、阿弥陀如来
生出山 清泉寺 (臨済宗妙心寺派) 「甲斐国志」には、弁翁西堂禅師天文二(1533)年とある。門山恵広和尚(桂林寺)の伝法による円巖全通和尚、梅捜和尚禅師の時代、鎌倉建長寺派とあり。宝永三(1706)年、清岩和尚禅師まで、龍泉派下正徳四(1714)年となり、今日までその法燈は続いている。 郡内三十三番観音霊場三十一番札所 三月 春彼岸会   四月 坂下地蔵尊祭り、延命地蔵で耳をよくすると伝承されて、一般の人々の信仰厚く縁日には参詣人多い。
生出山 清泉寺
本尊は、薬師如来
岩生山 保壽院 (曹洞宗) 弘治年間見叟法長彡の開基により、長生寺五世明庵宗鑑禅師を開祖とす。曹洞宗憲に基き、現座道場本尊として、近年釈迦牟尼仏を尊請す。明治年間再度の祝融により堂宇悉く焼失、依って寺録一切不詳、現在に至っては、アッツ観音建立、総門、本堂、鐘楼を新築し、都留七福神霊場を開いている。アッツ観音、「大東亜戦争、昭和十七年日本軍は、孤島アッツ島を、占領、翌年突如米軍は二萬の大軍をもって上陸してきた。山崎大佐を長とする二千六百余名の守備隊は奮戦血闘十八日、残存兵力百数十名大佐を先頭に突入し、世界戦史上曽って無き全員玉砕したのです。」世界平和を祈願し、大佐の生家保壽院境内に尊像を建立した。
岩生山 保壽院
TEL 0554-43-3500
本尊は、十一面観世音菩薩
旭洞山 本光寺 (曹洞宗) 当山は天正二(1574)年、本寺長生寺十五世一卓是教大和尚を開山として開創されました。四百二十有余年の歴史を刻んでいます。本堂は江戸時代末期の建立で、天井には当地出身の絵師で旭岳鱗とその弟子の作と言われる絵が遺されています。 昭和五十九年、禅宗の修行の中心である坐禅を経験、実践して頂きたいと建立し、子供参禅会、会社やその他の団体の研修等に開放しています。 平成十年、少子化などの社会情勢の中で一人暮らし、後継者不在の人の為に、無縁共同納骨墓地を建立してあります。十三回忌まで霊骨をお預かりし供養させていただきます。
旭洞山 本光寺
TEL 0554-48-2333
本尊は、延命地蔵菩薩 行基作伝
宝泉山 専徳寺 (浄土真宗本願寺派) 寺記に依ると開祖は澄空律師貞観二(860)年といい、天台と法門に随徒していたが釈円信法師弘安三(1281)年に至り浄土真宗の教旨に随い真宗本願寺末となった。十五世釈円乗法師(明治三十七年)が若干にして歿し、長年にわたり無住の時代が続いた為、本堂庫裡は見る影もなく荒廃してしまった。昭和二十二年勝沼町三光寺より釈正訓法師が塩山市常泉寺より坊守釈尼香徳と入山し再興を企り、昭和五十年独力で庫裡を再建、平成八年七月寺檀の浄財によって本堂大改修を行った。 寄棟造りの九間四面ケヤキの丸柱向拝の天上を飾る龍の彫刻は希に見る逸品である。
宝泉山 専徳寺
本尊は、阿弥陀如来
宝池山 正蓮寺 (浄土真宗本願寺派) 創立は天長年間初年の頃(平安時代)天台宗の修練道場であった円融寺が開闢となります。鎌倉時代の初期(寛喜年間)に、開基だある唯善上人は親鸞聖人の教えに帰依し、浄土真宗・宝池山正蓮寺と改めました。 山号の宝池山というのは、現在では様相がすっかり変容し、当時を偲ぶことは出来ませんが「一町余リノ池アリ」(由来記)と記せられているように、大きな池があったことから付けられたものです。  一月一日元旦会 三月彼岸会 八月孟蘭盆会 九月彼岸会 十一月の報恩講法要 十二月の除夜会が勤修されています。 また、住職と門信徒の皆様で毎月一度、勉強会を開催しております。
宝池山 正蓮寺
TEL 0554-43-3091
本尊は、阿弥陀如来
如意山 深泉院 (曹洞宗) 当院は、伝法始祖吹毛冷生大和尚より、現住職南嶺北洲をもって七世となる。累代の名刹も多い都留の中にあっては、その数は瞠目すべきものとは言い難い。しかし、その起源は、由緒書きによれば今から数えて、四百三十余年の歴史を持ち、三十四世を閲したことになる。  パリ画檀で大成功を収め、都留市名誉市民である、故増田誠画伯の菩提寺であることも特筆に値する点である。各地から思いがけなく見知らぬ人が、画伯の墓を尋ねて来訪することも多い。 毎年一月十六日の厄除閻魔例大祭 四月八日降誕会 十一月二十四日本尊地蔵会十二月八日成道会 盆供養会
如意山 深泉院
TEL 0554-43-2577
本尊は、延命地蔵菩薩
大儀山 長生寺 (曹洞宗) 開創は、文明元(1469)年八月九日、甲斐国守護武田刑部信昌公より、寺領二十石山林境内一万五千坪の寄進を受け創立。開山は、鷹岳宗俊大和尚。元和四(1618)年諸堂皆灰燼し、鳥居土佐守成次公七堂伽藍を再建した。明治十五年再度不慮の火禍に遭い、中雀門を残すのみで七堂伽藍を喪失。明治十七年再建したが、以後荒廃し文化財の散失や無伽藍状態となったが、長生寺四十二世重興牧牛義童大和尚が檀信徒の協力を得て、諸堂の新築、境内地の整備をおこなった。 徳川家康公、当山十世則室大和尚代にお立ち寄りの記録あり。甲州八十八霊場第八番、甲斐百八霊場第二十五番、都留七福神弁財尊天霊場(正月三日間)
大儀山 長生寺
TEL 0554-43-2690
本尊は、釈迦牟尼仏(伝聖徳太子作)
照光山 信行寺 (法華宗 本門流) 当山は、明治四十二年大僧正日啓聖人が都留市に巡教の折、土地の信徒数人とこの地に道場を建立する願を立てられたのが発祥で、その後精力的な布教活動をされる中信徒数も数を増やし、昭和三年当山二世日正上人の時、現在地に移転し本堂、庫裡の寺観が整備され、現在に至る。 平成四年川棚地区に新墓苑が完成となる。住職、寺族一族、檀信徒問わず皆様の来寺をお待ちしております。 当山年間行事 元旦 除夜新年法要、二月二日 節分追難会(厄除け)、五月二十五日 鬼子母神祭、 八月十六日 施餓鬼会、九月十二日 高祖御会式 
照光山 信行寺
TEL 0554-43-3464
古今山 西凉寺 (浄土宗) 当山の開山である信蓮社深誉林徹上人は、江戸・神田の生まれであり、芝・増上寺中興の祖、観智国師の弟子であった。上人は谷村に来て称名院という小庵に住していたが、里長であった里吉弥次右衛門が伽藍を建てて上人を迎え、古今山称名院西龍寺と号し、後に西凉寺と改めた。昭和二十四年に裏山中腹に位置する儀秀稲荷を除いて、全山が焼失した、本堂は谷村大火の後に再建されたものである。大火による損傷を免れた儀秀稲荷は、これを記念して毎年五月十三日に大祭が催されている。  石垣は、宝暦七(1757)年、十一世宣誉上人の代に修理を施した由の銘記があり、大火前から残る遺構の一つとして、当時の寺の姿を偲ばせる
古今山 西凉寺
TEL 0554-43-2340
向富山 専念寺 (真宗 大谷派)  宗祖は、親鸞聖人で本山は京都の東本願寺。真宗では、本尊を木像や絵像として色や形をもって表す場合と、名号すなわち言葉で表す場合とがあります。南無阿弥陀仏という言葉が本尊になるというのは、真宗の教えからのみ出てくるのです。  都留市指定文化財「森嶋基進の基」が本堂裏の山手の墓地の中央にあります。基進は、「甲斐国志」の編集者として有名です。その草稿によれば、昭和二十四年の谷村町の大火で焼失した専念寺の本堂は、秋元公が川越へ移封の際、地元へ残していかれた菩提寺泰安寺の護摩堂(本堂)を解体、再建されたものと記されています。
向富山 専念寺
TEL 0554-43-2904
本尊は、阿弥陀如来
大法山 東漸寺 (日蓮宗) 当山は、北条相模守重時の嫡子石河式部勝重(鎌倉将軍惟康親王の武臣の説)が当地に一宇を建立したのが起こり、専ら真言宗の密法を伝え、高明院と称した。元徳元(1329)年、富士大石寺二世日目が当地に弘教するや、勝重その門に入り、法号を日理と改め、山号を大法山、寺号を東漸寺と改称し宗旨を転じ、日目を開山と仰ぎこれより富士門流のじとなった。天文元(1532)年教運坊日感が住職するに及び身延山に登詣し、身延山十三世日伝の教化を受け、改派して身延直末となった。  江戸時代の一時期秋元家国家老高山家の菩提寺であった。  裏山には七面大明神を祀る七面堂がある  秋元家国家老高山家の墓(市文化財)
大法山 東漸寺
TEL 0554-43-3679
本尊は、一塔両四士
大慈山 円通院 (曹洞宗) 応仁元(1467)年に梅厳全芳居士が開基となり、観世音菩薩を勧請して、円通庵が開創された。寛永十(1633)年、秋元氏が谷村藩主となり、同十三年、城下町作りに着手、それに伴い、田町より現在の地に移転する。鐘楼に吊るされた大梵鐘は、秋元喬朝公の家老、高山甚五兵衛長繁が、貞享三(1686」年に、母の供養の為に寄進したものである。その鐘の鋳造者は、椎名伊予藤原良寛であり、日光東照宮の徳川家康公の廟所の宝塔、上野の寛永寺。芝の増上寺の鐘の作者として知られる。山門の前の池には、秋元氏が行った治水灌漑事業によって造られた家中川に架けられた五石橋(五つの石橋)の一つが保存されてます。
大慈山 円通院
TEL 0554-43-2504
本尊は、釈迦三尊
禅定山 長安寺 (浄土宗) 開山は、生誉感貞和尚といい、小田原城主北条氏綱公の子息、伊奈御坊といわれる。 領主鳥居元忠公の崇敬を受け、前領主小山田公の別荘跡を寄進されて天正十三(1585)年一寺を建立したもの。同十七年、徳川家康公が郡内巡見の際、引見されようとしたが、病と称して拝謁を辞退し、ために家康公から見舞いとして茶壺一口を送られたのが、現在寺の寺宝になっている。  正保三(1646)年の大火で、山林伽藍すべて灰燼に帰したが、時の領主秋元公の寄進をはじめ、篤信の方々の努力で、享保十(1725)年に再建。棟札、寄進札、経石等が昭和五十八年の大修復の時に発見され、再建年代が確認され、県有形文化財になる
禅定山 長安寺
TEL 0554-43-0850
開運山 龍石寺 (天台寺門宗三井寺派) 城下町谷村が発祥の昔から下天神町にありましたが、昭和七年に田原に在る瀧下不動尊を基に御分霊をして現在の谷村町駅前に建立されたのでございます。五十三世安藤順恵住職が中興として開運山と名ずけ広く市民の崇敬を受け「お不動さん」と呼ばれております。  寺院の行事としては、春夏二回の大祭、 近年では、修験道による採打大護摩供、及び火生三昧(火渡り)、鳴動(鳴釜)を行う外年間を通じて、祈願、祈祷(家払い、お加持、方位除け、星供、名付け、地鎮祭、悪霊払い、開運厄除)供養、人生相談等を行っている不動信仰の霊場であります。
開運山 龍石寺
水上山 西願寺 (真宗 大谷派) 今から約七七五年前、嘉禄元年に親鸞聖人が当国へ御遊化の際に瀬中の郷の草庵に於いて出家剃髪し、法名を釈寂玄法師とされましたのが当山第一世と伝えられています。約六四〇年前、六世釈円空法師の時に、先代西願法師の法名を採って「西願寺」と寺号を公称する様になりました。天正十八年の頃等々力の万福寺と並んで甲州南都留郡瀬中郷とありますが、慶長十三年徳川幕府の政策もあり、本願寺が東西に分派した際、「西願寺」は大谷派、東本願寺に属する様になりました。その頃、領主鳥居氏の好意で現在の地に伽藍を移した。 四月十四,十五日永代経。 四月二十二日御太子講の御祭。 十月十四、十五日報恩講。
水上山 西願寺
TEL 0554-43-3141
補陀山 普門寺 (曹洞宗) 源 頼朝公が征夷大将軍となった翌年建久四(1193)年、富士の巻狩りの本陣谷村の地に、武家の守りとしての祠堂を建てたのがこの寺の始まりであるとされ、曹洞宗としては永正年間(1504−1521)、本寺宝鏡寺六世の僧、天翁宗葩大和尚を当寺の開山として迎え以後、江戸時代初期(1611)年天台宗慈光寺と合併した当時この地の繁栄と相応して大伽藍の名刹として隆盛を極めたと記されています。  現在の本堂は大正三年の建立で当時としては画期的な中柱の無い傘の骨構造によって支えられた屋根、床は石畳の椅子席でした。2001年11月11日檀信徒会館が落成する。 一月元旦は、都留市七福神毘沙門尊天
補陀山 普門寺
TEL 0554-43-3400
本尊は、十一面千手観世音 (運慶作)伝
大龍山 法泉寺 (曹洞宗) 元禄七(1694)年、八世天巌祖暁和尚が入山、和尚開眼の石地蔵「跼也(かがめや)地蔵」の話が伝えられています。『元禄十二年新しく地蔵堂とそこに祀る石地蔵とを造る事になった。石地蔵の彫刻を依頼された石工は、大幡山から石を運び、一体の地蔵尊を刻み上げた。ところが、明日開眼という日に地蔵堂へ運んだら厨子に入らず石工は頭を抱えてしまった。たまたま勧進から帰って来た祖暁が、「わしにまかせておけ、御利益を試してみよう」と地蔵の前に座ると「汝は石にすぎぬ。衆生の成仏を願って、菩薩の姿に刻み申しただけ、納まらねば、開眼は不可能、開眼できねば汝は石ころゆえ、捨て去るぞ。」すると、祖暁の言葉に恐れ、頭をこごめて、無事納まった。』以来、毎年四月第三日曜日に「跼也地蔵尊」の祭典
大龍山 法泉寺
TEL 0554-43-3631
向富山 用津院 (曹洞宗) 開基小山田耕運、開山鷹岳宗俊禅師です。『伝説、郡内義民六地蔵尊』江戸時代の初期郡内を支配していた秋元三代目摂津守喬知の制圧に郡内の農民を代表して二人の惣代が直訴して、二人は投獄され、家族は追放、寛文八年二月十四日に処刑、このため郡内十九ヶ村の代表として七人の名主が秋元氏江戸屋敷に直訴したが、聞き入れられないので、江戸町奉行所に越訴した。(死罪を覚悟で)結局この七人は延宝九年二月二十五日、用津院から二百メートル程離れた金井河原で農民一揆の首謀者として処刑され、七人の首を洗った石造樋が今も用津院境内にある。昭和三一年鐘楼堂建設以来檀信徒の家内繁栄を祈り、毎朝六時一秒も違う事無く鐘を打って今日に至る。
向富山 用津院
TEL 0554-43-2096
本尊は、虚空蔵菩薩
冨春山 桂林寺 (臨済宗妙心寺派) 応永・正長の間、格智禅師が遊化された時平弥太郎信実・信光が師の道風を仰いで開山に請じました。平弥太郎の遠孫小山田出羽守冨春公は本郡の領主に任せられ中興開基となり、冨春名乗の文字を以て山号として冨春山桂林寺と称するようになりました。随って小山田出羽守冨春公を開基といたします。『薬師堂』古は大奈良部落にあって村民の深い信仰を得ていましたが、後、当寺境内に安置することになりました。薬師如来十二神将を祀り、ご縁日は十月十二日です。今なお、眼の仏様としてお参りの人が絶えません。『開山禅師自栽の桜』 禅師お手植えの桜と言われ、村人はこれを豊兆の桜と伝承しています。
冨春山 桂林寺
TEL 0554-43-3270
本尊は、薬師瑠璃光如来 (運慶作の伝)
千眼山 江西院 (曹洞宗) 当院は甲斐国都留郡下谷村の長生寺の末寺であり、都留市金井に現存し、開基は謙室益翁大和尚で天文五年丙申に開闢されました。開山は、長生寺三世勅特賜一道光円禅師融山宗祝大和尚であります。特に五世天岩祖暁和尚が有名で、貞享十二年甲斐の国一世を風靡し、滋賀県彦根町伊井家菩提寺清涼寺の住職になられた、大本山総持寺中興禅師三十四世牧牛素童大和尚の法孫に当たる者で、計らずも江西院を拝領しました。  小山田家由緒に依ると出羽守を勤め婦人が身重の時薬師尊像に祈願し目出度く安産に及んだ。又、苦病に遭った時祈願し、健康回復の仏恩に依り堂宇を融山師に寄進したとある。
千眼山 江西院
 
大幡山 広教寺 (曹洞宗) 「甲斐国志」によると建仁二(1202)年将軍源頼家の命により寿三和尚が鎌倉よりこの地に来て一寺を建立し開基となった。開山の大川和尚より数代にわたり鎌倉建長寺の末寺であったが、天文九(1540)年、曹洞宗の石心宗玖禅師が住職となり、改宗し、開山となり現在に至っている。  本尊、坐底に「明徳元(1390)年法眼院誉勤作」と書かれ、市の有形文化財に指定されている。古い伽藍は明治年間に焼失し、総門のみが当時のもので勝山城の裏門を移築したといわれ、なお旧道入口には大きな萬霊塔があり、当時の寺の面影が忍ばれる。正月七日間都留七福神(福禄寿)、一月七日 善光寺、四月吉日 豊川稲荷のお祭、甲斐百八霊場第二十六番札所
大幡山 広教寺
TEL 0554-43-3329
本尊は、延命地蔵菩薩
冨光山 福源院 (曹洞宗) 郡内十七番聖観大悲観世音菩薩は、無量寺(明治五年廃寺、本寺と合祀)の本尊で聖徳太子の守本尊との言い伝えもあります。昔から子育ての観音様といい、商売繁盛の御守護として、火災や水害と不幸の中、一寸八分の金の胎内仏はその都度拾い出され、霊験あらたかな仏様として信仰をあつめられ、八月十日のお祭は盛大に行われます。又、山道脇にお祀りしている御寳頭盧様は、隠れた民間信仰として、続いており痛い所、直して欲しい所を一心にさすってお祈りすれば治癒するという言い伝えが誰とはなく語り継がれ、今も熱心な方々がお祈りに足を運んで来ます。  又、道場があり、住職が地元の子供達を集めて空手の指導もしています。
冨光山 福源院
TEL 0554-43-2095
本尊は、十一面観世音菩薩
金澤山 真福寺  (曹洞宗) 天文年間天台宗より改宗、開山は、宝鏡寺三世天融義通和尚  当山は、往昔上小野中丸の地にあり、古絵図に記されている。現在地に移転した年代は明らかでないが当山五世の頃と思われる。明治の末不慮の火災により堂宇・古書・宝物等悉く焼失し。幸いに本尊は搬出、現本堂は昭和六十年檀信徒の協力により建造。参道石段上の萬霊塔は当初の塔が水害により埋没した事で、現場所に再建された。 昭和五十八年架橋工事の折、当初の塔が川底より二百四,五十年経て掘り出され、今は、石段の左側に立っている。 天然記念物「大カヤ」の木 幹回り六メートル。郡内三十三番観音霊場第五番
金澤山 真福寺
TEL 0554-43-3424
本尊は、十一面観世音菩薩
金玉山 光彩院 (曹洞宗) 後水尾天皇、元和元(1615)年、開基幸安僧によって創建、但し詳細は不明。 開山は、宝鏡十三世州岩宣場大和尚で元禄十一戊寅年示寂。 明治十七年六月十三日の大火により本堂、庫裡ともに全焼する。昭和四十三年中央自動車道の開通に伴い庫裡・本堂を新築現在もものい改装する。 恒例年間行事  一月一日〜三日 新年祈祷会  春、秋の彼岸会  八月六日 施食会
金玉山 光彩院
TEL 0554-43-7676
本尊は、地蔵菩薩
日向山 棲月院 (曹洞宗) 明徳年間この地に棲月院と称する観音堂があり、その本尊であったものを、康正二年八月四日当院創開の際合祀した。  太補宗睦僧の創開にして、姓は武田出羽守信胤第一子宗胤の二男である。享徳三年五月甲斐国南都留郡東桂村夏狩宝鏡寺三世天融義通の嗣法す。康正二年八月四日同村十日市場日向山に一宇の長福院と号する薬師の精舎あるを現在地に移転し、棲月院を廃止し長福院と改めた。  明応元年二月十五日寂享保二年再び固有の棲月院に改称した。 恒例宗教行事  四月緑の日の前の日曜日水子総供養会  六月第一日曜 大般若会
日向山 棲月院
TEL 0554-43-1133
本尊は、薬師如来
水源山 永壽院 (曹洞宗) 延暦十九年弘法大師空海の開創と伝えられている。即ち同年富士山大噴火の際の遭難者供養のため一寺を建立し、最勝護国院と称して自ら最勝護国弁財天の尊像を彫刻安置された霊場、従って開創時は真言宗で本尊は最勝護国弁財天。 天文九年二月二日、宝鏡寺八世直翁宗正和尚が曹洞宗に改宗し、当院の開山となる。寺記には、「清水の湧出るありと按に懇地西隅の岩際より麗水湧出なるに誓願し弥陀の尊体を入仏し水の源なるを以て水源山と云い永く無量の寿水汲来ん事を祝言し寺号を永壽院と起立す。」と記録されている。
水源山 永壽院
TEL 0554-43-3919
本尊は、阿弥陀如来
長沢山 自得院 (曹洞宗) 創立開山は、一株宗易和尚、堂宇建立の節、文明十八年八月十四日勧請。此の地に黄巻赤軸を埋め経塚を成し、記念に一寺を建立し、経塚山と称した。明治七年五月燐寺長沢山万蔵寺を合併、長沢山自得院と改称する。  合祀仏  十一面観世音菩薩は、承和元年空海作と伝えられる。又、観世音菩薩、毘沙門天、不動明王、これら三体は、文化八年一月万蔵院へ堀口久五郎が奉納、後に当院に合祀されたもの。 恒例宗教行事  三月中日 春彼岸会、水子地蔵、慈母観音供養、  五月第三日曜日 大般若転読、  八月四日 大施食会  九月中日 秋彼岸会、歴住忌位牌堂供養
長沢山 自得院
TEL 0554-43-3339
本尊は、虚空蔵菩薩
石頭山 長慶寺 (臨済宗妙心寺派) 由緒によると、「昔、西桂町下暮地に護満長者あり。薬師如来を安置し尊敬せしも、長者の家絶えて後は薬師堂のみ在りせしに、富士の雪解水俄かに出でて堂宇を押し流し本尊は当地の池(御所泉)に止まりそれを安置す」と記録されてる。  天台宗の比叡山を行脚し、その報徳に村民が帰依し、寛正三乙午年五月一草庵を結び長慶庵と号して開創し、示寂す。  開山、五峰東原禅師は、元亀元年鎌倉建長寺より来り、天台宗を臨済宗に改宗し、堂宇を造営し、庵を寺と改め開山。  信仰行事、 十月十一日 本尊薬師如来の例祭。
石頭山 長慶寺
TEL 0554-43-3663
本尊は、薬師如来 鎌倉時代の作
種月山 耕雲院 (曹洞宗) 当院は、南朝の忠臣児島高徳の家臣が、夏狩の西方湯ノ沢に一堂を建立し、夏狩山高徳寺と称し真言宗であったのを後に村中に移し、さらに応永五(1398)年宝鏡寺二世聖天義賢和尚が復興し、曹洞宗に改宗し、種月院耕雲院に寺号を改め開山し、現在に至っている。現在地に寺籍が移され造営されたのは、享保八(1723)年、五世融刹応円和尚代のときである。  当院の摂末社として、二世晦翁宗朔和尚起立と伝承される弥靭堂があり、子育延命地蔵が合祀されている。六世大嶺智鏡和和尚代に結社された百体観音像が本堂内に安置され、毎月八日と、毎年五月八日大祭 子育延命地蔵祭 毎年四月十八日
種月山 耕雲院
TEL 0554-43-2593
本尊は、六道能化地蔵願王菩薩
大醫山 光照寺 (曹洞宗) 建久四(1193)年、頼朝公が富士山御狩に際し、傳法僧正(正治元(1199)年三月十八日寂す)を江州より頼み、武運長久の為に、東桂村堂地に一宇を建立し、「大醫山廣照寺」と号したことに由来する。十六世紀末頃、圓月山光照寺と称し、十八世紀途中、大醫山光照寺と改められた。  元は、天台宗であったが、応栄二(1395)年、曹洞宗へ改宗し、伊豆の最勝院末寺となったが、その後、文亀三(1503)年、宝鏡寺の末寺となっている。文禄三(1594)年十一月八日、御本山九世躰岩尭道大和尚を当寺の開山と勧請したのが、当山の開創である。又、庭前の松は、安永七(1778)年に植えられたもの。九月に薬師如来の祭典。
大醫山 光照寺
TEL 0554-43-4288
本尊は、薬師如来
宮下山 西方寺 (曹洞宗) 曹洞宗以前は天台宗であったと伝えられる。曹洞宗になっての開山は宝鏡寺十世然室牛廊大和尚といわれている。開基は傳室春清大庵主(元禄八年)伊藤三右門の父と伝えられる。  明治時代初期の火災による建物の焼失と住職不在の時期は当寺の檀家総代が懸命に過去帳を守り、再建にあたっては鹿留の全戸より協力を得て本堂等を再建し、又、その折には資金不足を補う為御正体山の即身仏の行者妙心上人の御堂跡も一部を移築したとも伝えられてる。  近年檀家の所有地より移転された十三尊仏は、遠くは東京方面より石仏愛好家の方々が写真や拓本を採りに見えられます。
宮下山 西方寺
TEL 0554-43-2651
本尊は、阿弥陀如来
龍石山 長泉院 (曹洞宗) 寺はもともとは、現在地より約三キロメートル離れた所、鹿留川の上流の渡戸という所の山際に洞石があり、そこにあったといわれている。この洞石からは霊泉が湧き出し糸のように長く流れ、霊霧が絶えず、龍蛇が棲むといわれていた。山号及び寺号はこれに由来するものである。  享保十二(1727)年宝鏡寺四世大蒲宗睦和尚の弟子で同寺第五世となった東陽得春和尚(大永七(1527)年示寂)を大巓智鏡和尚が勧請し法地開山とした。  寺に伝わる古いものとして、涅槃図、道元禅師行状図対幅がある。最後の幅は保存状態がよく、大法輪閣の手で縮小し、複製し、全国に紹介されている。
龍石山 長泉院
TEL 0554-43-2883
本尊は、千手観世音菩薩(運慶作 伝)
金鼇山 宝鏡寺 (曹洞宗) 東桂のこの地に約650年前鶏岳和尚が開山された。当時の場所を内森の丘という。  間口七間奥行十五間の庫裡は、300年前の建物です。山号の金鼇山は、開山が中国で修行していた地の名前と裏山の形が亀に似ていることから名付けられました。裏山に登ると、東桂が一望でき桜の名所でもあり、乃木希典の書の忠魂碑や、徳富蘇峰撰文の忠魂碑があります。又、百八段の階段を登りつめた山頂には、五百羅漢堂があり百八十体の羅漢様がユニークな顔でお迎えしてくれます。 ペット霊園を開苑し、七mのペット観音様がその霊を慰めています。 甲斐百八霊場二十七番札所、甲州八十八ヶ所霊場十一番札所
金鼇山 宝鏡寺
TEL 0554-43-4459
倉境山 広徳院 (曹洞宗) 応永年間真言宗の僧、一堂宇を建立し広徳庵と称した。後庵絶したが永正五年徳巌公隆和尚の化導により禅刹となり宝鏡寺の末寺となる。  本堂は、当山十三世機外憲三の代、昭和十四年東京、渋谷山福昌寺本堂を移築現在に至る。書院を含め総坪数七十坪。  庫裡は、当山八世黙谿泰仙代、安政六年一二月焼失、同僧、万延元年八月再興し現在に至る。  年間行事、 三朝祈祷会、春秋彼岸会、  愛宕権現例祭、四月二十九日、 大般若 転読会、四月二十九日、  水子地蔵尊供養、(両彼岸会)
倉境山 広徳院
TEL 0554-45-2523
本尊は、阿弥陀如来
水辺山 泉福院 (曹洞宗) 開創は、今から四百七十年前、天文元(1532)年、高野山の僧「寶印宗易和尚」で山号を水岸山、寺号を泉福院と称す。  天正八年(1580)年本寺宝鏡寺七世晦翁宗朔和尚、引沢より現在地に移転し、堂宇伽藍を建立し、曹洞宗に改宗し、山号を水辺山と改め、開山となる。大正元年九月二十四日台風の為、本堂全壊す。昭和十四年先代、本堂再建の発願され、寄進半ば戦争の為できず、先代の意思を継ぎ住職五十年にわたる誓願が実り好因縁のもと、檀家八十軒先祖を思う報恩行により、当山待望の本堂再建が実現された。本堂二階、庫裡一階、行事、花祭り、四月第四(土)、施食会七月第一(日)、本尊観音祭り、八月十日、
水辺山 泉福院
TEL 0554-45-2296
本尊は、十一面観世音菩薩
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